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「播州」、今でいう兵庫県の南部に位置するここ小野市は、古くから金物のまちとして栄えてきました。古文書によるとその歴史は、今を去る約250年余前にさかのぼるといわれています。
その後、時代の変遷とニーズに伴って生産される金物の種類も増えました。しかし、伝統的な特産品としての刃物、工具、園芸用品などは全国の消費者が認めるところです。
小野といえば昔から「東洋のゾリンゲン」といわれるほど、その優秀性は折り紙付きです。
発達の時代
寛政、文化、文政(1780年〜1830年代)で、昔は城主が移動(転勤)するとその城主について鍛冶屋職人も移動していました。特に、刀鍛冶はその一例でした。
原材料と背景
1.鳥取県(鳥取砂丘)で採取した砂鉄1級品を玉鋼といって日本刀の材料となりました。
2.三木市(丹生山)付近で採取した鉄、薪炭用の木材等が豊富にありました。その上、刀職人が大勢いたことが金物の生産向上に繋がりました。
小野市を中心に生産されている播州鎌は、全国生産量の約80%を占め、その歴史は古いと伝えられています。
現在の鎌は、明治維新後、旧一柳藩の抱え刀鍛冶であった藤原伊助が、剃刀の製造技術を鎌に応用したのが起源とされており、以後「カミソリ鎌」と呼ばれ、その鋭利さが消費者に大変喜ばれています。
播州鎌について
播州鎌は、学理と機械化の導入に成功したのに加え、明治12年頃に問屋の勃興で全国に販路を開拓して他産地を圧倒し、その全国的地位を確立しました。
その後、複合鋼材の開発(大正8年)により、品質や生産の向上かつ廉価生産がなされ、近郊農家の副業として急激に普及発達しました。
さらに昭和12〜15年ごろには、朝鮮、東南アジア、満州にも進出し最盛期を迎えました。
戦後は農業の機械化、輸出の減少等社会情勢の変化で、一時停滞期がありましたが、品質の改良、生産技術の向上、また、最近ではオートメーション化等の研究がつまれ、着実に進歩しています。
現在の製品の特長は、消費者のニーズに応えるため多様性に富み、「薄く研ぎやすいこと」、「切れ味は最高で刃こぼれも少なく錆びにくい高級品であること」などです。播州鎌は、確かな品質で、ますます全国にその名声を博しています。
播州鎌の製造工程
飛鳥、奈良時代に、朝鮮半島や中国で発達したハサミが裁縫技術者の渡来によって伝えられたと推察されています。
ハサミは、中世まで貴族婦人の化粧具、男女の理髪に使われたに過ぎません。
日本衣服は、平安以後、貴族の衣服もあげくびの襟ぐり以外には曲線がなく、すべて直線裁ちでしたので裁断は小刀で事足りていました。
明治以降、洋服、裁縫の伝来と共にラシャ切鋏が伝えられ手造りで日本でも製造されました。
家庭用鋏について
播州では、文化3年(1807年)頃、ニギリ鋏からはじまり、昭和5年頃からラシャ切鋏が研究開発されるに至っています。昔は絹と木綿だけが良く切れればハサミの目的は充分に果たせました。ところが現在では、化学繊維の布を切ろうとすると、布が滑ってしまい、これでは使いやすいハサミとは言えません。切りながら布地が手前に引き込まれる様でなければならないためです。
布地にかかわらず、切ろうとする物を滑らなくするために、刃にギザギザを付けたり、刃の研ぎ目がかすかに波打って入る様に研ぎをしているハサミもあります。いずれにせよ研ぎ澄まされた二つの刃が擦れ合う時の微妙な摩擦音、これがハサミの切れ味と同様に思われます。
にぎり鋏の製造工程
播州そろばんは天正8年(1580)羽柴秀吉が三木城攻略の際に大津方面に難をのがれた住民が大津そろばんの製法を習得し、帰郷後、製造を始めたのが起源と言われています。
昭和51年には、国の伝統工芸品に指定され、全国一の生産量を誇っています。